体罰について考えてみる。

以下この記事は私の価値観のもとで考え、書かれている一個人の意見に過ぎません。

体罰をなぜするのか。先生曰く「口で言っても理解しないから体で覚えさせるしかないんだ。」

私たちの日常生活のコミュニケーションに目を向けてみよう。非言語コミュニケーションと言語コミュニケーションと大別してみると、より簡易的なのは「非言語」コミュニケーションではないか。「あー、あれとってほしかったんだけど。。。」等、口を開いてこそ分かることの方が多い。スポーツにおいては顕著である。サイン(非言語)の方がミーティング(言語)よりもよりインスタントに少ない情報量を伝えていることが分かる。論拠は足りないと思うのだが、「生徒は情報が複雑すぎて理解していない」と考えると体罰は効果のないことであるように感じられる。

「痛いから次はやらない」と思うのではない。痛みはすぐになくなる。怖いから、痛みへの恐怖があって初めて抑止力がかかるではないか。体罰が生徒をコントロールする手段になる理由は「痛み」ではなく「恐怖」になるのではないか。

そしてさらに罰を受けている際の「不快な感情の持続時間」が関わってくると思う。彼らはもう高校生である。日本でも中学生のころから怒られるのは「怖い」ものから「めんどうくさい」ものへと変わってはいないか。少なからず私は中学のころから教師に叱られるのは「めんどうくさい」から嫌だった。

つまり、現時点で行われているcaningで苦戦するのであれば、より「めんどうくさい」ものへと変更することが求められる。

以上のことを考えると(もちろん金輪際決してやるつもりはないが)日本で伝統的な一つの体罰が非常に効果的だと思う。

「バケツを持って廊下に立ってなさい。」

恥、肉体の疲労。立っている時間とその後の疲労の回復時間を思えば十分に「めんどうくさい」体罰であったと推測できる。

結論に入る。とにかく言いたいのはじゃあこれからこういう体罰を導入しようというのではなく、少なからず自分の権限の下においてかれらを罰しなければならない際には体罰なしで「よりめんどうくさい」ことを意識づければよい。ということになる。ジリジリと。できればいいなとこれからも考えていきたい。

 

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